イメージ 1

落合の石畳から北に向かうと、まさにポタリングにうってつけの道が出現\(^0^)/

知ってるよ!

ここから2km弱は、歴史と、のどかな里山の空気を味わいながらチリリンと走れる区間だ♪



















イメージ 2
(中篇)



















イメージ 3

新茶屋の一里塚は落合宿と馬籠宿の中間地点にある。

江戸幕府は街道整備する時、並木と一里塚を整備した。

一里塚は俗に知られるように4kmごと(36町ごと)に設置され、旅の行程管理や人足の駄賃計算の目安となった。

当時の庶民の移動は当然「徒歩」で、健康な成人男性で1日10里(40km)、成人女性で1日8里(32km)が標準。

僕は旧中山道を何回か移動しているけれど、山道にしても落合の様な石畳にしても、

現代のトレッキングシューズ履いてたって1日20kmちょっと歩くと「これはもうしんどい」になってくる様な道だ。

それを草鞋で1日30~40km歩き、それを毎日当たり前にこなす訳だからなあ・・・。

多分、本当は誰もが年齢関係なく豪脚でいられるんだろうな。毎日、繰り返してゆく事の積み重ねで。


















●新茶屋の民宿
イメージ 4

かつて、ここには立場茶屋があり、宿場間の休憩場所にあたる場所だった。

ここ新茶屋の名物が「わらび餅だった」と語っているブログは数多い。どこかのブログの転載の様だ。

僕が歴史的資料を仕事で調べた時にはその様な記述があるものは見つけられなかった※が、

その茶屋では団子やお茶の他に、草鞋などを販売していたという事は判った。

それは別に特別な事ではなく、街道筋でよく見かけ風景だったようだ。

さもありなん(*v.v)。。。

旅人はどんどん草鞋をはきつぶしたろうし、沿道の誰もが草履作りはお手の物だったろうからな。

(※その後、旧山口村村史で、見つけた)












ここで、街道と宿場の事にちょっと触れておくか。

宿場というのは現代人の感覚では「商店街」や「町」の様に感じるかも知れないが、

江戸時代では役人の休憩、人馬の継立(交代)、物流の中継、情報の中継などを行う「交通インフラ」だった。

街道の監督者も町村の様ないわゆる町奉行ではなく、道中奉行であり、街道沿いの各宿場についても然りだ。

街道整備に先だってその法度は細かく定められており、

例えば、『旅籠(はたご)や木賃宿(きちんやど)等の宿泊施設は宿場以外に設置してはダメ』なんてのもあった。

だから、宿場と宿場の中間地点には、宿泊機能ナシの『茶屋』しか無かったんだよね。

ちなみに、現在では新茶屋には2軒の民宿がある。

ここを基地としてトレッキング、あるいは自転車の旅をするのも面白いかもだ。(登り方向はキツイよ!)



















●荒町周辺をゆく(*v.v)。。。
イメージ 5

のどかな里山の中をゆく。


















イメージ 6

「夕景100選」というのに選ばれているスポット。いい景色だ

街道筋には馬籠出身の文豪・島崎藤村や芭蕉、正岡子規、一九の句碑や狂歌碑なども立っている。

このブログで細かく紹介はしないけれど、かつてこの道を通った文人たちが遺した作品に触れて、

彼らが見たであろう情景に思いを馳せるのは、古の景色がまあまあ残る旧中山道の楽しみ方の一つと思う。



















イメージ 7

各地で見る梅も、とてもきれい

戦前、春の景色と言えば梅だったというけれど、なるほどなァ。。。

咲き乱れる梅の木を見ていると、桜にまったく劣らない・・・というか、

やたら桜だらけになった近年の風景の中で、逆に新鮮に感じる。この前、石山寺で見た時も、そう感じた。


















イメージ 8




















イメージ 9


















●諏訪神社
イメージ 10

村社の諏訪神社。

ちょっとお参りしていくか。



















イメージ 11

ひっそりとした森の中にある。

先代の宮司さんが高齢になった為、昨年だったか若い後継の方に変わったらしい。



















イメージ 12

舞台もある。

馬籠より4kmほど上にある峠集落の熊野神社でも、神社の舞台は大切に維持されていたな。

あっちはもともと地歌舞伎用の舞台だったが、こちらはどうか、僕には判らない。

ただ、「巫女舞い」はここでやってる筈だ。

馬籠周辺では、例祭の際に小学5年生の女の子が舞を踊る巫女舞いという習わしが長く続き、

それぞれの集落でいまだにその様な文化を持っていたりする。

少子化が進んだ現在では、小学5年生限定という枠に当てはめる事は難しいようだが、

カタチを変えながら維持している集落もあるらしい。一方で、途絶してしまった集落もある。


















●庚申塚
イメージ 13

庚申塚は、街道整備の時、宿場町によく設置されたようだ。

これも伊勢講や富士講などと同じ「講」の一種だったそう。来歴を調べたが、忘れちゃったな。

ただ、馬籠には浜松の秋葉山参りの「秋葉講」は昭和50年代まで残っていたという、驚きの話がある。

長老にお話しを聞いたところでは、最後のあたりは講に参加する家もだいぶ減ってしまっていたようだけれど。

でも、日本どころか世界のどこに行くにも殆ど苦労しない現代において、

神社へのお参りとそれにかこつけた江戸時代の風習(垢落とし)を続けていたというのは面白いよね。

地域のつながり、それだけ大切にしてきたんだろうなあ、なんて思ったりする。


















●馬籠城跡
イメージ 14

中世の城・馬籠城の跡。

中山道が出来るよりも前に城が存在した。

このあたりは武田氏だとか織田氏だとかの勢力争いの前線地域だったようだ。

夏、近所の人にこの城の事を尋ねた時、

「ああ、何も残っとらんよ。ヤブ蚊に食われるだけだから、入らんほうがええ」と有り難い忠告を頂いた。



















●馬籠宿入口(下)
イメージ 15

トロトロと走っているうちに、平安京より27番目の宿場町「馬籠宿」の下の入り口に近付いてきた。

江戸まではまだ42宿の宿場町があるが、僕の今日の目的地はこの馬籠だ。

中津川からここまでBROMPTONで来ようなんて多分もう思わないだろうし、無いと思う^ ^;



















イメージ 16

右手を見ると恵那山。

馬籠の人たちと話をしていると、恵那山の話題がよく出てくる。

とても愛着がある山なんだろう。

僕にとっての岩手山と同じ。すごくよく判る。



















イメージ 17

石屋坂の石壁にBROMTONを立てかけて一枚撮ろうとしたら、前方から軽トラが1台入り込んできた。

見ると、馬籠の知り合いの1人だった。

おじさん:「おお、KOU、来てたのか。こんな場所で何やってんの?」

KOU:「ああ、今日はちょっとチャリンコ持ってきてぷら~っと走りながら、足りない写真を・・・」

おじさん:「ちょうどいい、ちょっと話があるんだ」

建物の裏手に連れて行かれて、しばらく話をする。

うーん、やりがいありそう。面白い話だ。

こういう話を僕みたいなひよっこに相談してくれる人がいるのは本当に嬉しい。

ワクワクしてきたら、おなかが減ってきた。

ご飯を食べて行こう。

この地域といえば「栗こわめし」が何と言っても有名で、しかも美味しいが、

混雑しているかも知れないので、空いてそうな店に行く事にする。


















●「なつかしいカレー」

馬籠に何回か足を運んでいるうちに顔なじみになったおねえさんのいる喫茶店が近いので、フラリと入った。

おねえさん:「あら、いらっしゃい。今日は・・・?」

KOU:「プライベートでふらふらと写真を撮りにチャリで巡っております」

おねえさん:「中津川から自転車で?すごい」

KOU:「二度とこんなバカげた事はしないかと・・・」

おねえさん:「そういえば少しほっそりというか、やつれたような。あの仕事で(笑)?」

KOU:「いやいや、フツーにダイエットしただけですよ(苦笑)

   ・・・この『なつかしいカレー』って、何がなつかしいんだろうか?昔の写真でも添えて出してくれるの?」

おねえさん:「さあ、どうかしら。ウフフ」

KOU:「まあいいや。ひとつください」



















イメージ 18

少しミルク色がかったカレー。

なるほど、牛乳がたっぷり入ったカレーね。

ばあちゃんがよく作ってくれたのは、このタイプのカレーだった。

確かになつかしいし、おいしい

いただきます・・・ごちそうさま。



















●馬籠宿
イメージ 19

斜面に造られた宿場町として、間違いなく代表格だろう馬籠宿。

欧州中心に世界中の観光客に注目されるようになったのは「ロンリープラネット」に掲載されたからだ。

欧州系の旅人はこういった宿場に投宿しながら旧中山道の山道を歩いて旅をし、

日本人やアジア系は乗用車やバスでやってきて買い物をして、また車で別の場所に移動するのがパターン。

僕みたいな変わり者は自転車でやってきて、とても登れないので自転車を押して進んだりしている。


















イメージ 20

例えば、旅籠(はたご)を模した、こんな民宿に泊まって旅をするのは、僕も好きだ。

今年の夏は、旧中山道沿いでそんなトレッキング旅をしてみてもいいかもな。

馬籠の旅籠に投宿して妻籠⇒三留野⇒野尻あたりまでトコトコ歩いて、

なんとか渓谷のあたりで野営するなんてのは現代の旧中山道沿いを満喫する2泊3日のプランの様にも思う。

旧中山道を歩くなら、勿論、BROMPTONはお留守番という事になろう。



















イメージ 21

「旅」って、工夫すれば楽しみ方は本当に無限だと思う。

友達、カップル、家族、単独、どんな出かけ方をしても、大体楽しい。

まずは、出かける事が大事だよなあ。





































●藤村記念館(旧馬籠宿本陣)
イメージ 22

文豪・島崎藤村の生家にして、代々馬籠の本陣を務めた島崎家があった場所。

実は、馬籠の歴史的な建物は明治以降の2度の大火でほぼ全焼しており、

現在当地で見れる建物はほぼ全てが復元のもの。

藤村記念館敷地内にある「隠居所」は、往時から残る数少ない建物の一つだ。

焼失した島崎家には、近代であれば水戸浪士や明治天皇など著名人がしばしば訪れており、

それらのエピソードも豊富に残っていて、教えてもらうとかなり面白い。



















●脇本陣資料館
イメージ 23

藤村記念館の2軒上にある脇本陣資料館。ここは、本陣に次ぐ格の「脇本陣」があった場所。

建物の写真を撮っていたら、あれ?長老(館長)が店番してるぞ

これは非常に珍しい。

長老は齢95歳近いお年。

江戸の世がそれほど遠くなかった大正期からの馬籠や世相の変化をいつも僕に教えてくれる、有り難い先人だ。

けっこう高齢なのに、いつもシャキシャキ動いておられ、頭の回転も僕の5倍は早い。

KOU:「こんにちは~」

長老:「おお、いらっしゃい」

KOU:「店番ですか。これは大変珍しい」

長老:「学芸員の入れ替えの時期で、次の人が来るまでちょっと間が空いちゃってね。

   それで、私が出てるんですよ」

ちょうどいい機会なので、教えてほしい事や判らなかった事を、また色々教えて頂いた。

色々な大学の先生や、長老の様な郷土史の専門家さん、

考古学の先生と交流を持つ事がこの2年で劇的に増えたんだけど、本当に面白い。

僕が休日も「シゴト」と称して半分遊び・半分フィールドワークに飛び込む様になった理由の3割は、

ああいった人たちの影響の様に思う。

今から郷土史を勉強すれば、歳をとった時、僕も皆さんの様な専門家として、

色々な人の知的好奇心を刺激出来る様な人間になっていられるだろうか・・・


















●玄武岩の石垣
イメージ 24

脇本陣資料館も大火でほぼ焼失してしまったが、建物の敷地を支える玄武岩の石垣は現存している。

本当に美しい石垣。

お城の石垣を上回るくらいの丁寧な仕事に思える。

馬籠宿は往時、大変貧しい宿場であったらしいという事だが、そんな事信じられない様な仕事じゃなかろうか。



















●永昌寺
イメージ 25

色々な人とおしゃべりしていると、時間が経つのが早い。

村で唯一のお寺である永昌寺にあたる日差しは、夕刻っぽいものになってきた。

永昌寺は、江戸時代以前は馬籠宿よりも低い位置にあったというが、宿場の中間付近の高さに移転したという。

それは江戸時代の出来事で、村人が総出で石垣を造り、地盤を造ったらしい。

急坂にへばりつくようにして広がる馬籠集落には、永昌寺に限らず、類似の石垣を持つ民家が非常に多い。

使っている石が白かったら、地中海のミコノス島だとかクレタ島の様に見えるんじゃないかしら。



















イメージ 26

藤村の生家・島崎家一族のお墓もこちらにある。

藤村のお墓は向かって一番右だった筈。

ちなみに、藤村のお父さん・正樹氏の墓もこのお寺にあるが、

キリシタンだったという事で異端扱いにされたらしく、一族の墓地から離れた、墓地の外れの方にある。


















イメージ 27

村に1個しかないお寺・永昌寺は、馬籠の『宝物』がいくつか保管されている場所でもある。

これは、青面金剛庚申塔(中央)。

前に書いた通り、庚申塚は江戸期に街道沿いに多数造られたが、主尊は色々だったようだ。

それが、明治期になると大体「青面金剛像」と定着していったのだそうだ。

庚申講に参加している家では、毎月決まった日は徹夜でお祭りする風習があったそうなので、

この像も毎月1回賑やかに飾られて、その周囲には夜通し篝火たいて村人が絶えなかったんじゃないだろうか。

永昌寺は江戸期に馬籠下の街道筋から移転してきており、

この庚申塚が街道から離れたこの場所にもともとあったというのも不自然な話なので、

お寺の移転と一緒に、ここにやって来たんだろうか・・・なんて思ったりする。



















●五輪塔
イメージ 28

その永昌寺から少し上の方に移動すると、田んぼの中に7基並んだ五輪塔が見えてくる。

この五輪塔は木曽義仲の妹・菊姫の墓と伝えられている。

木曽義仲は源氏内の争いで短命に終わるも、その妹の菊姫はなかなかの才女であり、人柄もよく、

頼朝や北条政子も没落に任せて過ごさせる事を不憫に思ったらしい。

その後菊姫は馬籠のこの場所に領地を与えられ、『法明寺』という尼寺を開いたそうだ。

その記録は色々な書物に残されており、昭和期に入ってからの発掘調査でも明らかになっているという。

五輪塔には面白い話が色々残っていて、それらはブログなどに載っているものでもないので、

興味のある方は地元の人に色々訊いてみるといいと思う。





さて、ぼちぼち帰ろう。



(後篇につづく)