2015年の夏、ロシア連邦の『ハカス共和国』という国に出かけた。

70年前に多くの日本人が抑留され、没した場所のひとつ。

1945年。

不可侵条約を突如破棄して日本に侵攻したソ連軍は、千島列島や樺太、そして満州などを占領し、

その土地にいた200万人以上の日本人のうち約107万人を拘束、

シベリア、中央アジア、東欧等のソ連支配地域に労働力として送り出した。

俗に『シベリア抑留』と呼称される出来事。

人道的とはいえない環境と過酷な労働で、日本に帰れぬまま34万人が亡くなったという。





僕のじいちゃんもまた、人柱となってしまった1人。





『親族がまだ誰も訪問出来ていない事があまりに不憫すぎる』・・・そう思い、

終戦70年を機として慰霊訪問を決めたのは、前にもぐちゃぐちゃ書いた通り・・・が、

出発日が近づくにつれて、

『彼は、いつか自分の子供や子孫が、自分の死没地を訪ねに来る事を

少しばかりは想像したんじゃないだろうか』

・・・とよく考えるようになり、自分にその役割が与えられたのかも知れないな…なんて、

無神論者の自分らしくもなく、考えたりした。

まあ、祈る事よりも訪ねる事のほうが、より自分向きなのは間違いない・・・とは思うわけです。






あと、今回は愛車であるフォールディングバイク(折り畳み自転車)BROMPTONを携行して、

僕自身初の『海外 旅×輪\(^0^)/』となった。

今回訪ねるハカス共和国、レンタカー会社を見つける事が出来なかった事が

チャリを持参した最大の要因。

じいちゃんは『お前、墓参りの顔して、遊びにきたのか!』と怒っているかも知れないし、

まあ、僕の趣味と無関係でない事は全然否定しない(むしろ肯定する)が、

僕は僕で現代社会で生きている人間なので、そこは、じいちゃんにも大目に見てもらいたい!

そんな訳で、今回は、しんみりした記事と、フツーの『旅×輪\(^0^)/』が入り混じった内容になると思う。

いくつかの章に分けて、ゆっくりコツコツ書いていくので、

・いわゆるシベリア抑留で亡くなった方のご遺族の方

・シベリア抑留というものをこれまで知らなかった方

・ハカス共和国みたくWEBで検索しても殆ど情報が出てこないエリアに興味がある方

・単に海外でのポタリングに興味がある方

などなど、興味がある部分だけでもご覧いただければありがたい。






●INDEX

≪序章≫
 今回の旅の経緯の他、このINDEXと同様の内容のまとめ。






≪Part.1≫ハカス共和国・アバカンへ
 直線距離はインドやモンゴルの諸都市と大差ないが、直行便がない。
 モスクワ乗り換えだと最低1回、沿海州の諸都市経由だと最低2回の乗り継ぎがあり、
 日本出発だとどんなルートを経由しても片道22時間くらいはかかってしまう模様。









≪Part.2≫ハカス共和国にて慰霊および文化見学
 地理的には中央アジアに隣接しており、モンゴル西部アルタイ山脈の北方になる。
 『言葉』に関しては、街なかでは英語は全く通用しない(『ウォーター』や『ワン・ツー・スリー』も)。
 よって、お墓参り行く場合、ロシア語話者かよほど旅慣れた人以外はガイド必須。
 首都アバカン市は非常に清潔で、素朴な雰囲気。
 日中の治安には不安を感じる事はなかった。夜は出歩いていません。
 僕はチェルノゴルスクとアバカンで慰霊した後、郷土資料館でこの国の歴史や文化を教えてもらった。
 非常に深い歴史の一端に触れる事が出来た、貴重な体験だった。














 アバカンにて町の探訪 with ニコライ













≪Part.3≫アバカン市 ポタリング
 2日間のアバカン市滞在、2日目はガイドは使わず単独でアバカン市を探訪。
 今回、初めて『マイチャリ』を海外に持ち込んだ。
 自分の愛車で見知らぬ土地を走るのは、現地のレンタサイクルでのポタリングとはまた違った味。
 重い荷物を抱えて移動する趣味は無い為、誰でも出来る横着でラクチンな方法で実現!













≪Part.4≫モスクワ駆け足見聞録
 モスクワでの乗り換え時間は往路同様に8時間もあった。
 往路ではキリル文字とロシア語だけの世界にビビって空港内に引きこもっていたが、
 復路では思い切ってモスクワ市内の『赤の広場』に行ってみる事に。
 事前に何も準備しておらず、モスクワ地下鉄のラビリンスに迷い込む様な流れになりつつも、結果オーライ?










≪Part.5≫訪問記終章
 モスクワから日本への帰り道、日本の国土が眼下に広がった時はたまらん気持ちに。
 その後、お盆に帰省して家族等に報告した後日談等。