今回の墓参りにあたり、実家の両親にリクエストしていたじいちゃんの情報が届いた。

その情報をもとに、いくつかの情報をWEBで検索して補完し、

じいちゃんとその家族が辿った昭和21年までの旅路を地図に落とし込んでみた(本文最後付近に掲載)。

色々な情報を集め、今まで「タバコ好きで学者肌」という事しか聞いてなかったじいちゃんの生涯が

おぼろげに浮かび上がってきた。

備忘録も兼ねて、まとめておこうと思う。







●生い立ち

じいちゃんが明治43年に生まれた村は2度の町村合併を経て既に残っていない。

彼が育った実家も、25年ほど前に最後の1人(おそらくは彼の姉妹)が亡くなり既に無い。

ただ、僕が子供の頃、その町に1度行った事があった。

仙台市より少し北の地域、鳴瀬川のほとりの田園地帯の農村。

本当にのどかで「とてものんびりした感じの土地だな・・・」と子供心に感じた。

彼のお爺さん(僕の高祖父にあたる)は村の村長だったという事で、父と共に立ち寄った村長室で、

高祖父の写真を見た記憶もよみがえってきた。

そうだ、そんな事が確かにあった。

じいちゃんの実家の住所の村の名前を検索すると村の情報が出てきて、歴代村長一覧の中に、

確かに僕と同じ名字の村長さんが、1人いる。

この人が、じいちゃんのじいちゃんに間違いない。

任期は大正前半の時代だ。

村長の祖父を持ったじいちゃんは、割と恵まれた少年時代を送ったものと思われる。





●学生時代~就職~結婚

宮城の高等中学を卒業したじいちゃんは、当時度々飢饉に襲われていた東北地方全域の

農業政策を高度化する為に全国で初めて設立された高等農林学校である盛岡高等農林学校に入学する。

高等教育機関が7帝大と数えられる程度の私大しかなかった時代。

じいちゃんの家は恵まれていた分、教育熱心だったのだろうし、彼は期待に応えて熱心に勉強したんだろう。

盛岡高等農林学校では、その分野の権威のもと、土壌学や肥料学をこんなかたちで学んでいたと思われる。

非常に興味深い。




もし、じいちゃんが生きていて、自分が研究した事やその後の仕事の事を色々と僕に教えてくれていたなら、

僕もとても関心を持った様に思うし、同じ様な道に進んだ可能性は非常に高かったと思う。

もっとも、彼ほどまでに学問で優秀なる成績を修める自信はあまりないが。。。





前述のレポートに登場する教授方の中には1970~80年代まで存命の方もいらっしゃった模様なので、

当時にお話を伺う事が出来ていたなら、その頃から50~60年前の盛岡で

下宿生活を送りながら研究に励んでいた、1人の青年の思い出話を聞けたのかも知れない。

その後、学校を卒業した彼は、農林省(現・農林水産省)の技術官吏になった。

そして、馴れ初めはよく判らないが、卒業してから10年間のどこかでばあちゃんと出会い、結婚している。

興味深いのは、仙台近く(旧伊達藩)に立派な実家があるのに実家を離れて盛岡で暮らすじいちゃんと、

元々盛岡(旧南部藩)で代々続く家で暮らしているばあちゃんとの間をとりもつように、

わざわざお見合いをセッティングする様な文化が当時あったのかしら(・・)?という事だ。

旧伊達藩の人と旧南部藩の人の様な括りは長らく残り、あまり仲がよくなかったらしい…と聞くから

お互いの家同士でどうのこうの、というのはちょっと考えにくい様に思う。

だとすると・・・

じいちゃんは盛岡市上田の校舎に通っていた筈であり、ばあちゃんの実家も上田だったから、

なんとなく在学中に出会っていた可能性が高い様な気がする。

とにかく、じいちゃんは昭和10年頃ばあちゃんと結婚したらしい。

そのまま盛岡、あるいは郷里の宮城で暮らす事になれば、彼の人生は長く続いたのかも知れない。

しかし、新婚生活を送る舞台となるのは、その頃から3年前、大陸に誕生した新国家・満州だった。

結婚したばかりの彼は、奥さんを連れてどんな気持ちで旅立ったんだろう。

列強に負けじと拡大する大日本帝国政府から課せられた使命を帯びて、誇らしい気持ちだったかも知れない。

彼が旅立ったのは26歳。やっぱ、優秀だったんだろうな。

現代の26歳よりずっと大人だったと思うが、案外、「新天地でやってやるぞ!」みたいな感じが近いのかな。






●満州国・ハルピン特別市

じいちゃんの時代の地図では、朝鮮半島や台湾などは日本だった。

その先の中国東北部に、昭和7年、日本の実効支配力がおよぶ傀儡国家『満州国』が誕生していた。

昭和10年、じいちゃんは満州国の農林技術向上・指導にあたるべくハルビン特別市(哈爾浜特別市)に赴任、

『農林省 勧農業模範場』勤務となった。

ばあちゃんも夫に帯同してハルビンに渡っている。

2人が海路を使ったならば、途中から満鉄の大陸超特急「あじあ号」で移動した可能性は大いにある。

あるいは、制空権も十分な時代であり、農林省の公務での赴任である事から空路で渡ったかも知れない。

ハルビン市は満州国の北部に位置した都市で、道路・鉄路・水上交通の要衝だった。

特に鉄道網は、当時からヨーロッパ方面と満州・中国地方に向かう鉄道網の分岐点でもある。

街が位置する北緯45度は稚内とほぼ同等であるが、大陸性の気候である事から寒暖差はより激しく、

例えば1月の平均気温はマイナス18度という厳しさだ。

そういった土地で、農作物の色々な研究・技術開発を行い、地域発展に貢献したらしい。

満州でのじいちゃんの痕跡が何か残っていないか・・・と思って調べてみたところ、


見つける事が出来た。

組織として取り組んだ事の方向性や、彼らが勤務した研究施設(現存しているらしい)の写真を確認できた。

また、資料の31ページに全職員の出身校と数の表があり、盛岡高等農林学校農学部出身者1を見つけた。

おそらく、この『1』こそ、じいちゃんなのだと思う。

昔、ばあちゃんが語ったところによると、農林省の技術官吏はオンドル式暖房が完備された

レンガ造の官舎もあり、その他様々な待遇も整っていて、割と良い生活だったらしい。

同時期『満蒙開拓団』として満州に渡った方たちと比べると、格段に恵まれていたのではないかと思う。





昭和10年に満州に渡った後、じいちゃん夫妻は

昭和11年(長男)

昭和13年(長女)

昭和16年(次男)←僕の父親

昭和18年(三男)※夭折

昭和19年(四男)

当時にすれば普通だったのかも知れないが、10年の間に5人の子供を授かっている。

そうか、僕の父親『満州国ハルビン市生まれ』なのだ。

当時、満州国には130万人の日本人居留民がいたので、満州国生まれの子供もたくさんいた。

僕の父のように、現在も元気で健在な方もたくさんおられる事でしょう。

それでもやはり、大陸で日本の支配力が及ぶ広大な地域・都市なんてものは、僕には想像出来なくて。

一体、どんな社会、どんな景色だったんだろう。

細かな事も言うと、就労ビザとか旅券とか住民票とか、大日本帝国と満州国でどう交わされたのか、とか、

色々と興味は尽きない。







●戦争~ソ連対日参戦
父親が生まれた昭和16年、大日本帝国は太平洋戦争に突入する。

昭和20年の敗戦に向かうにつれ、内地(日本本土)では男性がどんどん召集される様になってゆく。

満州国はソ連、モンゴル(ソ連の傀儡国家)、中華民国、そして朝鮮半島(日本)と隣接しているわけだが、

ソ連とは不可侵条約が結ばれていた為、軍(帝国陸軍 関東軍)はともかく市民は楽観的だったようだ。

しかし、やがて大日本帝国の戦局悪化に伴い、満州国でも徴兵される人が増えていく。

病弱だったじいちゃんは兵役を免除され続けていたようだが、敗戦も間近になった頃、ついに召集されてしまう。




じいちゃんの徴兵のタイミングがソ連対日参戦の推移にどう関わっているのかはまだ判らない。

事実として、広島原爆投下のわずか2日後8月8日23時、ソ連は不可侵条約を破棄し、日本に宣戦布告。

その2時間後の9日1時に、満州国に侵攻を開始する。

満州国に駐屯していた帝国陸軍の関東軍は、数か月前からソ連に危機感を募らせていたものの

130万人とも言われる日本人居留民を内地に移動させる現実的な手立てもなく、

また、大規模な避難は逆にソ連侵攻を誘発するという恐れもあって、市民の避難は手つかずだったそうだ。

大日本帝国全体としてみれば既に軍隊全体が消耗・疲弊しきっている状況であり、

満州国を防衛するべき関東軍も例外ではなかったようだ。

押し寄せる圧倒的な数のソ連軍に対抗出来る部隊はごくごく1部であり、

ほとんどの隊は撃破され、戦線維持できず、雪崩のような侵攻を止められない。

翌10日、関東軍幹部は居留民の避難指導も不十分なまま撤退体制に入り、

100万人以上の日本人が、結果的にではあるが満州国に置き去りという状態になってしまう。

8月15日、大日本帝国は無条件降伏し、満州地域への影響力を完全に喪失。

8月17日、満州国廃止を満州国政府が決定、皇帝・溥儀が退位。

農業の技術開発・指導の任務を帯びて、大陸・ハルビンへ渡ったじいちゃん。

そして、彼に帯同したばあちゃんと、そこで生まれた子供たち。

彼らが10年の生活を営んだ『満州国』はある時を境に突然消滅し、

同時に、彼ら家族は無政府状態の大陸のど真ん中に投げ出される事となった。







●じいちゃんの最後の旅路

じいちゃんとばあちゃん・子供たちがどのように離れ離れになったのか、判然としない。

判っているのは、この先のお互いの旅路は大きく分かれてしまい、二度と交わらなかったという事だ。



じいちゃんの最後の旅路はよく判っていない。

いつソ連軍の捕虜となり、どの様な経路で西に連れていかれたのか。

シベリア鉄道くらいしか思い浮かばないが、違う手段で連行されたのかも知れない。

行き先はアバカン地区のチャイナゴール 33-1収容所。

じいちゃん本人の目的地では、勿論、ない。

そこで、彼は僕が想像したくない様な、見ていられない様な扱いを受けたんだろう。

また、生き別れになった家族を、さぞ心配した事だろう。

もともと身体が丈夫でなかった彼は、ソ連侵攻からわずか5カ月、酷寒のシベリアで没する。







●ばあちゃんの旅路

一方、そこからのばあちゃんの長い旅路も、じいちゃんがまさに心配したであろう大変なものだ。

ばあちゃんたちは、頭を丸坊主にして、ひと目で女性だと判りにくい様にしてハルビンを脱出。

母国・日本を目指す旅に出る。

日本までの道のりはとてつもなく遠い。

満州も朝鮮半島は、その時まさに、日本の支配からようやく解放された直後の土地だった。

そんな無政府状態の土地を、2000kmも陸上移動しなければ、大陸を出られない。

皆さんお聞きおよびの通り、ソ連兵の暴虐は一般市民に容赦なく向けられた。

暴行、略奪、強姦では済まない。

遊び半分で短銃やマシンガンで撃たれ、死体はゴミのごとく放置されたり、

車列に次々に魅かれるままであったりしたそうな。

狂気の連中何十万人に追いかけられながら、ばあちゃんは4人の子供を連れて、大陸をひたすら移動した。

そんな道中、ハルビンを出発して数日後に体調を崩していた9歳の長男が倒れた。

ジフテリアに罹っていたという。

ばあちゃんは途中の町で何とか治療や薬を手に入れようと努力したが、全くうまくいかなかった。

迫りくる追手からの脱出の途上、ばあちゃんはこれ以上ない極限状況だったと思う。

そんな母親や妹弟たちを見て、9歳の彼はこう言ったそうだ。

「お母さん、僕の事は、もういいですから」

それからしばらくして、彼は亡くなった。





果たして、ばあちゃんと長女、次男(僕の父親)、四男はソ連軍や地域の賊に遭遇する事なく釜山に辿り着く。

そして、昭和21年の8月、ようやく日本の博多に引き揚げ船で戻ってきた。

もし、旅路の途中でなにかあったのであれば僕の父親を含む3人の子供が中国や朝鮮の残留孤児になっていた

可能性も極めて高い。

実際、そんな子供たちが何千人も出てしまった。

80年代までTVで度々放送されていたように、僕の父も日本人の肉親を捜す中国孤児としてTVで紹介され、

それを見たばあちゃんと再会した…なんて事もあったかも知れない。

ばあちゃんたちは、幸運にも、それを免れた。





しかし、日本に戻った後も、大変な旅はまだまだ終わっていなかった。

当時、満州から帰ってくる『引き揚げ者』は、多くの国民から好奇の目で見られたり、

あるいは特段の理由もなく、白い目見られる風潮があったという。

こういうのは、日清・日露戦争やら関東大震災やら戦後すぐの市民生活の文献などで度々散見し、

現代ですらごくごく一部の日本人に脈々と受け継がれているように見受けられる『排他的感情』の

様なものかも知れない。

とにかく、福岡に着いたばあちゃんはそれから何日もかけて盛岡まで移動した。

そして、わざわざ住民が寝静まった夜を見計らい、実家に帰ったのだという。






●調べる事で判った『意外な事実』

こんな出来事を、70年前、僕の肉親は体験していたのだが・・・

『調べた事によって発覚した重大な事』がもう一つあった!

それは『実は10年前に、じいちゃんの遺骨が日本に戻ってきていた(らしい)』という事。

これには、本当に驚いた。

10年前、政府からそんな連絡を受けていた叔母(長女)が、ずっと放置していたようなのだ。



僕は、今回の墓参りに際し、生き残ったばあちゃんと子供たちが築いた家庭やその子孫の写真を

現地のお墓に持っていければいいな・・・と思い、

叔母や叔父(四男)に伝えて写真貸してもらえないか訊いてほしいと両親にリクエストしていた。

その流れの中で、叔母が母に明かしたらしい。

「おじいさんのお骨は10年前に日本に戻ってきてるらしいよ」

「エエッ!?何それ!」

ってか、離れて暮らしてる僕はともかく、なんで親族誰も知らないの!?

母曰く、ロシアがお骨の引き渡し事業を行っており、その中にじいちゃんのものと思われるお骨もあって、

千鳥が淵の戦没者記念館に保管された・・・と、の事。

だったら、叔母さん、10年前に教えてくれてもよさそうなもんだ

叔母夫婦は少し変わり者(頑固・昔堅気)なところがあって、従兄弟姉妹が成人した後はそれほど行き来が

なかったという事はよく知っているが、それにしたって、いくらなんでも・・・。

国が曰うには、じいちゃんの骨の可能性が高いのだけれど、正確なところはDNA鑑定じゃないと判断出来ず、

それに必要な血液は、じいちゃんの子孫の男性から採血したものでないと判定出来ないそうだ。

だったら、ウチか四男(叔父)連絡してもらわんと判定出来ないじゃないか。

下手したら、他の親族誰も気づかないままに『無縁仏』にしてしまうところだった。

骨がじいちゃんだったとしたら、10年経っても娘や息子が迎えに来てくれず、かなり焦っている事だろう。

何故、叔母が連絡して来なかったのかよく判らないが、

その話を知った次男と四男は、姉への意見はともかくとして感慨深く受け止め、喜んだようだ。

早速、2人とも採血を受け、DNA鑑定に回した。

結果は鑑定開始から2カ月後・・・ちょうど、僕が墓参りに行く頃に判るという。





まあ、実際、物体として『骨』があってもなくても、日常生活に何の変わりも無いと思う。

僕も別に本心からの信仰心なんて持ち合わせていない。『皆無』と言っても過言ではない。

だけど、色々なリスクを乗り越えて命を繋いできたご先祖さま、まして直近の肉親には敬意を払いたい

長い人類の歴史、あるいは家系の歴史の中で、どちら様の家系の中でも、

時代背景に翻弄される様な出来事、危機一髪の出来事や、誰かの犠牲の上に成り立っている出来事は、

当たり前に、無数に存在しているんだと思う。

そして、ちょっと調べてみるだけで、どれだけ一生懸命生きたのか、こんなにビリビリ伝わってくる。

100年くらい前の御先祖さまの事を色々調べてみる事は、素晴らしい事かも知れない。







●じいちゃん、ばあちゃんの旅路(1910~1946)
イメージ 1







※『旅輪』のコーナーに入れている通り、可能であればBROMPTON持って行こうと思ってます。