およそ1年前の冬、初めて鳥取を訪れた鳥取に、ふるさとの様な懐かしさを感じた。
“不便であるが故に変わらずに残っている美しさ”がたくさんある土地柄が、岩手に近いのだ。
まあ、岩手は県央部であれば新幹線も高速道路も通り、そういう美しさは徐々に消えつつあると思う。
でも、鳥取県は今現在でも隣県との高速道路接続は無いし、
それどころか県内の鉄道は全て非電化で、新幹線は勿論『電車』すら走っていない。
僕が鳥取に出かける時はいつも『ディーゼル特急スーパーはくと』。
力強いエンジン音を響かせて、因美線の山並みの中を疾走してゆく。
ただそれだけなのに、国内旅行では感じる事すら難しくなってきた《旅情》というものを、
当たり前に感じる事が出来る。
そんな鳥取を先週取材旅行する機会があったので、ちょっとだけ紹介したい。
●郡家駅
その日、僕は早起きして6:20名古屋始発の「のぞみ」に乗ったが、
その日、僕は早起きして6:20名古屋始発の「のぞみ」に乗ったが、
前日の大雪の影響で新大阪発の「スーパーはくと」には接続できなかった。
郡家駅(こおげえき)に到着したのは予定より3時間遅れの12時頃。
駅に停車していたかわいらしい気動車は「若桜鉄道」という路線の車両。
●若桜町の位置は・・・
これから向かうのは若桜(わかさ)町。
これから向かうのは若桜(わかさ)町。
立ち寄りの目的は『若桜駅のSL見学』と『鯉料理』だ。
郡家駅からは鉄道ではなくバスで移動。
圧雪悪路をガタガタ揺られることおよそ45分、僕は山間いの小さな町のかわいい駅前に到着した。
●若桜駅
小さい駅に小さいロータリー。絵に描いたような、田舎の駅。
小さい駅に小さいロータリー。絵に描いたような、田舎の駅。
若桜鉄道の社長さんの説明によると、若桜鉄道の全駅が登録有形文化財だという。
そういう鉄道は日本で唯一、この若桜鉄道だけだ。
こういう景色は四季がある国ならではだね。
若桜駅が鉄っちゃんのみならず地元民に人気があるのはSLや給水塔等のSL設備の功績が大きい。
このSL、現在は工事用のコンプレッサを搭載していて、蒸気ではなく空気の力で走行する事が出来る。
C12 167は昭和10年代に製造され、昭和19~21年までこの若桜線を走っていた機関車だ。
その後も他路線で活躍した後、廃車扱いとなって鳥取県多可町(若桜町の隣町)に引き取られ、
長い間公園に設置されていた。
一方、若桜鉄道には昔からのSL用の鉄道設備が残存していて、2006年に保存活動が立ち上がる。
その時、隣町の公園にある(かつて若桜線を走っていた)C12 167の誘致活動が行われた。
多可町は「このままでは錆びるだけだから」という事で好意的に対応し、
法律上の車両保有者であるJR西日本も快く無償提供に同意、SLは陸路で若桜駅まで輸送される。
若桜鉄道は最初、C12 167を「飾り物」と考えていて走らせるという発想は無かったらしい。
ところがある時、蒸気機関車に詳しい人が車両を見て「これ、動くかも知れん」と言う。
その後の調査で「状態がよく、修理すれば使える」(というか、修理しなくても多分いける)という
結論に達し、今後5ヵ年かけてSL復活を目指して活動する事になった。
不思議なのはSL復活を目指すのにどうして蒸気ではなく空気で動くようにしてるのかという事だが、
SLの蒸気機関は高圧力で圧力容器扱いとなる為、運用するには会社に特別な免許が必要となる。
また、圧力への十分な安全性を確保する為にはやはり費用もそれを集める時間もかかってくる。
それまでSLを寝かせておくのも勿体無いという事で、とりあえず駅構内を動ける程度の動力確保の為に
工事用のコンプレッサ(蒸気機関ほど圧力が高くならないので免許がいらない)を積んで、
現時点では世にも珍しい「空気機関車」となっているというわけだ。
この“空気機関車”C12 167は、現時点で一般客も体験運転できるSLとして人気を集めている。
若桜駅はとても風情がある、古い駅。
今は雪に包まれているが、春になると転車台の周囲に桜が咲き乱れ、非常に美しいという。
●鯉料理のフルコース(べんてん)
この若桜の町の名物料理は「鯉料理」だという。
この若桜の町の名物料理は「鯉料理」だという。
さきほどの地図でも判るが若桜は海から遠く離れた山間の町。
海魚の入手が難しい土地柄、川魚としては大きい鯉が貴重なタンパク源となった事は想像に難くない。
しかし、この町の鯉料理はそういう範疇を超えた『鯉料理の究極進化型』だと思った。
供される料理の品数、そして美しさに驚く。
山間の町だという事もあって、キツネに化かされているのじゃないかという感覚が起こるくらい。
これが本当に全て「鯉料理」だというのだろうか?
若桜町でここまで鯉料理が発達したのには町が辿った歴史が大きく影響していた。
町の人の話によると、昔々の江戸時代、若桜で町の大部分が焼失する大火が発生した。
生き残った町民は、町の近くを流れる八東(はっとう)川から十分な水を引いて町なかを巡らし
火災に強い町割を造る事にして、結果、町は5本の水路が走る新しい姿になった。
ほどなく水路は生活用水ともなり、町の人たちが各々の自宅の庭にも小さな水路を引き入れて、
野菜を洗ったり食器を洗ったりする様になるのだが、そのうちそこで鯉を飼う事を覚えた。
ここまでも少なくとも明治以前、おそらくは江戸時代の話との事。
家々で飼われた鯉は山間の町の人々の貴重なタンパク源となると共に、
さまざまな席で対応出来る様な料理として、高度に洗練されて「フルコース」とまでなる。
昭和も後半になってくる各民家の水路は取り壊されてその上に車庫が作られる様になった。
余所から来る旅人にとっては残念な事であるが、現代では水路を持つ家はだいぶ減ってきているそうだ。
鯉料理のフルコースも料理屋に行けば食べられるが、昔の様に各家庭で鯉を料理する様な機会は
もう、あまり残っていないだろう。
冬が本番となる11月から雪解け水がある4月頃までの間、この地域の川の水温はとても冷たく
その間、鯉はほとんど餌を食べる事が無い。
べんてんの女将さんが言うには、「この時期の鯉は身が締まり臭みが全く無くとても上品な味」。
実際、今まで鯉料理というものを美味しいと思った事が無かったのだが、これらは驚くほど美味しい。
その技法も、こだわり方も、昔のこの町のひとたちが、どれだけ鯉を大切にしてきたか思い知らされるようだ。
料理の背景にある街の歴史も、味のひとつのエッセンスになっているのだろう。
鯉料理を食べていて、ふと思った。
僕らはよく郷土料理の広告を取り扱ったりするけど、あれらの紹介文ってまるで定型文の様になってて、
その文化や風土をちゃんと紹介出来ていない。まずいかも知れない。
また、今「B級グルメ」や「ご当地グルメ」での町おこしが盛んになっていて、
実際、僕自身もそれらの仕事に関わる機会はとても増えている。
あれらも地場の食材を使って地元にお金を落とすという事で素晴らしい取組みなんだけど、
反面、近年一気に作り上げた現象であって歴史的な重みは乏しい。
もし、そういうフードが人気になる事によって、
数百年以上の歴史を持つ郷土料理の担い手がいなくなってしまうとしたら…。
僕はもっともっと、その土地が持つ歴史や文化について深く知ったり、
掘り起こしてみる様な努力をしてゆくべきなのかも知れない。
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